Cybernetic being Visionとは、ムーンショット型研究開発事業 ムーンショット目標1「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」の達成に向けた研究開発プロジェクト「身体的共創を生み出すサイバネティック・アバター技術と社会基盤の開発」の研究開発推進を担う研究者の思考に迫り、きたるべき未来のビジョンをみなさんと探求するコンテンツです。
田中由浩
名古屋工業大学大学院工学研究科 教授
1980年、埼玉県生まれ。2001年東北大学工学部3年次に中退し大学院に飛び入学、2006年同大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。触覚の主観性と身体性に関心を持つ。NITech Haptics Labを主宰し、触知覚メカニズムの解明と触覚の情報化と活用の研究に従事。錯覚を活用した触感デザインや、触覚フィードバックによる感覚運動支援、触覚の共有を通した協調やコミュニケーションシステムを開発。IEEE Transactions on Haptics、Advanced RoboticsにおいてAssociate Editor等を兼務。
プロジェクト『サイバネティックビーイング』において重要なテーマに「技能融合」がある。もうひとつの身体「サイバネティック・アバター」を通して、複数人の技能を融合し、個人の能力を超えた技能を創発すること、それが技能融合が目指すゴールだ。技能融合研究グループに所属する田中由浩が研究するのは「触覚認知」。私たちの全身を覆う、身体最大規模の感覚・触覚の解明は、身体の制御メカニズムのみならず、人間の内的世界への扉を開く鍵だった。
触覚は、主観的で相互作用の感覚
サイバネティックビーイングプロジェクトでは「身体的共創」、つまり個人が他の誰かと技能融合をすることによって、個人の能力を超えるチャレンジを進めています。「1+1=2」ではなく、「1+1<2」を技能融合によってつくり出すということが課題です。
たとえば、未来の手術ロボットに、2人の医師を接続し、それぞれの医師1人では不可能な手術を達成するというようなことです。このとき、2人の医師の経験や技能が適切につながっていないと、そもそも共同作業をすることができません。また、単純にふたりをつなげ、ふたりの作業の平均値を手術ロボットで出力するということでは「1+1=2」を超えた共創にはなりません。
どうすれば身体技能の共創を生み出すような技能融合が可能になるのか、それが私のテーマ、触覚認知で探求している課題です。
触覚というのは、とても主観的な感覚です。そして、相互作用性のある感覚でもあります。そして私たちは触覚を含む感覚情報によって、固有の「内的世界」を構築しています。触覚はいかにして私たちの内的世界をつくりだすのか。そのメカニズムを理解することが、技能融合を実現する上では重要であると私は考えています。
触覚を理解するために、似た感覚である痛み(痛覚)について考えてみましょう。
私はとても胃腸が弱い子どもでした。授業中に急にお腹が痛くなり、「トイレに行ってきます」と手を上げて教室を出ていくような子どもでした。廊下をひとり小走りで駆け抜け、トイレに向かいます。教室のみんなの声が遠のいていくとき、ふと思うわけです。
「この痛みって、なんで他人に伝えられないんだろ?」
もちろん言葉では伝えられるけれど、私のお腹にある痛みそのものは、他人には「見えない世界」の出来事です。私のお腹の痛みというのは、他の誰かの世界とは異なる世界、つまり内的世界で起きている出来事なのです。
研究の世界に入り、私は痛覚と触覚に共通する「自己言及性」に着目するようになりました。
私たちは触覚を通して環境を認識したり、対象となる物体を操作したりしています。もしも全身の触覚がなければ、私たちは自分の身体を適切に動かすことができなくなるため、力加減を間違って物体を壊してしまったり、危険な場所に間違って立ち入ってしまったり、身体を傷つけてしまうことでしょう。
触覚は身体のコントロールにおいてとても重要なのですが、その情報源は、あくまで自分の身体です。つまり、ものに触れたりして自分の皮膚が変形したり、温度が変化したり、自分の身体に何らかの言及を行うことによって生まれているのが触覚という感覚なのです。
また、私たちはひとりとして同じ身体を持っていません。指先には人それぞれ異なる指紋があり、女性は男性よりも皮膚が薄い。子どもは大人に比べて指が小さい。つまり、同じものを触っていても、私たちの身体の自己言及の仕方が人それぞれ異なります。それゆえ私たちの触覚は主観的であり、固有の内的世界をつくりあげるのです。
そして触覚のもう一つの特徴である相互作用性ですが、これは、触覚というものは基本的に対象に触れるという動作を起こすことで生じるものだということです。指を運動させることによって、ある表面の「ザラザラ」や「ツルツル」、「やわらかい」といった感覚を獲得します。身体の運動がなければ、これらの感覚は得られません。
視覚や聴覚は、たとえ見続けても、聴き続けても、相手が変化することはありません。しかし触覚は基本的に触りに行くことで対象も変化し、自身も変化することで生じる情報なのです。たとえば赤ちゃんの肌の触覚は「やわらかい」というものです。これは、あかちゃんの皮膚が実際に柔らかいというのもありますが、そもそもの触り方が優しいのでそう感じるわけです。
触覚は主観的であると同時に、常に環境と自分の身体が相互作用することによって生まれる非常にアクティブな感覚情報だと言えます。
触覚は、情報化できる
科学として触覚を理解する上で重要になるのは定量化です。視力や聴力のように定量化することができれば、触覚を情報として記録、分析、計測ができるとともに、提示・共有することができるようになります。つまり、情報をもとに、狙った触覚を実際につくりだしたり、デザインすることができるようになるということです。しかし、触覚は主観的な感覚です。単に指を模倣したセンサーで対象をなぞり、その摩擦係数などを測定しても、触覚情報として意味のあるデータがとれません。
私が定量化で注目したのは、皮膚に伝わる振動でした。皮膚は全身に分布する、連続した「弾性体」です。皮膚に外部から力を与え、それをハイスピードカメラで撮影すると、皮膚の上を微細な振動が伝っていくことが分かります。この振動を測定すれば、自分の皮膚の肉の柔らかさなどの主観性と、指を動かす運動量などによる相互作用性を加味した触覚情報をとることができるのではないか。そうして株式会社テック技販と共同開発したものが触覚記録装置「ゆびレコーダー(*1)」でした。
ゆびレコーダーでは皮膚振動の周波数特性を触覚情報として定量化できることはもちろん、測定した触覚情報を逆関数にして「振動子」に出力することで、触覚の提示も可能です。また、周波数設定を変更することで、触覚情報を強調したりすることもできます。つまり「ザラザラ」や「ツルツル」といった触覚情報を、音楽情報のように扱うことができるのです。
現在はこの技術を応用し、日本にいる木工職人の手の触覚を、海外にいる人に届けるといった「触覚コミュニケーション」や、感覚支援技術としての医療応用などを応用研究として進めています。
触覚が拓く、技能融合の未来
では、こうした触覚情報がどのように身体技能の共創を生み出す技能融合を実現していくのでしょうか?
人間は触覚が分かることで、ロボットの身体を自分の身体のように感じることができます。たとえば医療技術の例でお話すると、昨今の低侵襲手術(身体に負担の少ない手術)の代表格である、身体に小さな穴を開けて行う「腹腔鏡手術」では、医師は身体の中の状態を外部から挿入された「鉗子」(はさみのような形状をした手術道具。空気圧で触覚を医師へ提示する)によって把握する必要があります。
熟練の医師は臓器を鉗子で撫でて、その微細な反応から、癌などの疾患を突き止めます。腹腔鏡手術において、鉗子は医師の身体の一部なのです。常人にはおよそ察知できない微細な触覚ですが、彼らの触覚が、数多くの患者の命を実際に救っているのです。
プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」で実際に進んでいる実験において、触覚情報の適切な共有が、技能を融合しやすくすることが分かっています。たとえば、一対の腕と手を持つロボットで、AさんとBさんが別々の手と腕を操作し、ひとつの物体を持ち上げるという共同作業を行うものとします。このとき、触覚情報が共有されていないと、ふたりは視覚情報だけで操作しなければならず、多くの場合失敗します。しかし、AさんにBさんの、またBさんにはAさんの触覚情報を提示することで、作業はあっという間に完了してしまいます。
こうした「感覚運動制御技術」の確立が技能融合には欠かせないものであることが、現在の研究から分かってきています。
5年間のプロジェクト「サイバネティック・ビーイング」では、3年目に複数人をアバターで接続し、基礎的な物体把持、操作ができることを目指しています。そして5年目のゴールとしては、たとえば開発途上地域や離島など、実際に技能が不足している場所にいる人に技能を届ける(出張技能)ということを実現したいと考えています。
現在は感覚を共有するための、感覚の「無人称化」(異なる触覚的主観性を持つ複数者間の差を埋めるための技術)などの課題をひとつひとつクリアしています。
プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」のプロジェクトビジョンに「人が一生のうちに得られる人生経験の質と多様性を拡大する」があります。
技能融合は、他人に「見えない世界」を共有することができます。それは誰かにとっては、これまで気づくことができなかった他人の痛みを知るきっかけになるかもしれません。またある人にとっては、新しい世界観との出会いになるでしょう。
これまではひとりの人間の内的な世界にだけ存在していた多様性が、人々に共有され、連鎖していくことでまったく新しい多様性を社会で構築していくこと。それが真の身体的共創であり、私が技能融合を通して実現していきたい未来だと思っています。
(聞き手・文 森旭彦、聞き手 小原和也)
(*1) https://www.tecgihan.co.jp/products/tactile-sensibility-measurement/yubi-recorder/yubi-recorder/