Cybernetic being Vision vol.8 ー サイバネティック・ビーイングは、脳の「世紀の苦手種目」(柴田和久)

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Cybernetic being Visionとは、ムーンショット型研究開発事業 ムーンショット目標1「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」の達成に向けた研究開発プロジェクト「身体的共創を生み出すサイバネティック・アバター技術と社会基盤の開発」の研究開発推進を担う研究者の思考に迫り、きたるべき未来のビジョンをみなさんと探求するコンテンツです。

 

柴田 和久

理化学研究所 脳神経科学研究センター 人間認知・学習研究チーム チームリーダー

1980年、東京都生まれ。2003年 東京農工大学電気電子工学科卒業、2008年 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士課程修了、博士(理学)。ボストン大学博士研究員、ブラウン大学リサーチ・アシスタントプロフェッサー、名古屋大学情報学研究科准教授、量子科学技術研究開発機構放射線医学総合研究所主幹研究員を経て現職。心理物理、脳イメージング、機械学習手法を組み合わせヒトの潜在・顕在過程および学習のメカニズムを明らかにするための研究に従事。

ウェブサイト:https://cbs.riken.jp/jp/faculty/k.shibata/

経験共有研究グループに所属する柴田和久は脳科学を専門としている。経験の共有や技能の融合は、脳科学の観点から見ると、脳にとって「世紀の苦手種目」なのだという。しかしその苦手種目に直面する脳を、現代の最先端の脳科学の知見によって研究するとき、まったく新しい脳科学の地平を拓く可能性があるという。プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」の「逆応用科学」としての可能性に迫る。

機械学習は脳の理解の前提を変えた

私は理化学研究所の脳神経科学研究センターで、人間の認知や学習について研究しています。

 

プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」では経験共有研究グループに所属しています。テクノロジーの開発を軸に関わっている研究者が多く、みなテクノロジーの言葉でサイバネティック・ビーイングについて語ります。

 

一方で私の仕事は、脳科学の言葉でサイバネティック・ビーイングを語ることだと思っています。このプロジェクトでは、これから誰も見たことのないような能力やインタラクションを実現する技術が生まれていくはずです。私はそれらに対し、脳科学として判っていることを知見として提供し、また、脳科学そのものを前進させる知見を得ていくことに興味があります。このプロジェクトの枠のなかで、脳科学とエンジニアリングをそれぞれ専門とする研究者たちが対話し創造できる状況が、現代の脳科学らしさを物語っているとも思います。

 

この10年を振り返った時、脳の研究は大きな転換期を迎えていたと言えると思います。それは、人による現象に対する理解としての脳科学から、機械学習にもとづいた理解へと変わったということです。

従来の脳科学で生み出されてきた研究・解析手法には、人が理解しやすい結果を出力する必要がある、という制約がありました。脳を理解する主体としての研究者が、他ならぬ人間であるからです。

 

しかし脳は人間の手にあまるほど非常に複雑な臓器です。脳の神経細胞はだいたい1000億個あると言われています。仮にこれらの神経細胞が0と1の信号をやりとりしているとすれば、脳の情報空間は単純計算で2の1000億乗次元となります。もちろんこれは非常に単純化した計算ですが、普通の人間が認識できるのは3次元程度であることから、途方もない複雑さであることがわかります。しかし現在、機械学習はこの複雑な脳の中から有用な情報を読み取るとともに、脳そのものを変える技術にも大きな影響を与えています。

 

脳科学は現在、かつての方法論的限界を少しずつ乗り越え、新しいフェーズへと進んでいます。プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」はまさにその最先端の知見を使って取り組むことのできる、時代の産物になると感じています。

 

意識を支配する無意識

理化学研究所では、人間の脳の無意識的情報処理について研究しています。私たちの脳には、意識的な情報処理と無意識的な情報処理が存在し、この2つが相互作用をしながら、思考や判断といった私たちの脳機能を形作っています。

 

たとえば、頭で「川」を思い浮かべてください。生まれ育った故郷に流れる川や、あるいは単純な川のイメージでも構いません。

 

では、その状態で「BANK」という英単語から連想するものを考えてみてください。
きっと多くの人は「岸」や「川岸」を想像したのではないでしょうか?
実はこれが人間の無意識的情報処理の影響なのです。BANKという単語には、「岸」の他に「銀行」という意味もあります。きっと「川」ではなく「お金」を思い浮かべていたら、「銀行」を想像していたのではないでしょうか?

 

このように、無意識は常に私たちの意識に先回りし、その判断や意思決定を支配しているのです。

 

人間の身体的な限界もまた、こうした無意識の産物です。私たちの脳は、自らの身体が壊れないように、また、過度に疲労しないように無意識下で制限をかけていると考えられています。

 

しかし一定の条件下でその制限が外れることがあります。「火事場の馬鹿力」などはまさにその一例で、無意識的過程による制限が外れることで、普段発揮できない身体的機能を発揮することができます。

 

こうした無意識のメカニズムを、機械学習によるアプローチなどによって理解し、疾患の治療や身体機能の向上に役立てるための研究を推進しています。

 

脳を理解し、脳を変える

また現代の脳科学から生まれた技術は、脳を解明するだけではなく、脳を変えることも可能にしています。その一例が「ニューロフィードバック」と呼ばれるテクノロジーです。具体的には、まず脳活動を測定し、その活動を被験者の方自身に見せることで、自分で自分の脳活動を制御してもらいます。その制御の目標状態に応じて、脳活動を様々な状態に引き込むことができます。ニューロフィードバックは脳の機能不全を治療するための技術として期待されていますが、近年の機械学習技術の向上によってその機能も進歩しています。私はニューロフィードバックを人間の認知・学習の仕組みを調べるために用いてきました。

 

たとえば私たちの研究では、ニューロフィードバックで人の「顔の好み」を変えられることを示しました。
実験では、まずfMRI(機能的磁気共鳴画像法:脳活動によって生じる微細な血流の変化を測定する技術)の中で被験者に様々な顔を提示し、好き嫌いを点数化してもらいます。このとき、それぞれの点数に対応する脳活動を測定します。脳の「帯状回」と呼ばれる領域の活動から、被験者が評定した好みの点数についての情報を読み出すことができるということが、先行研究から判っています。

 

次に測定した脳活動から、被験者の顔の好き嫌いを判別できる「デコーダー」(脳活動の解読機)をつくります。具体的な機械ではなく、コンピュータのプログラムです。デコーダーを用いて、リアルタイムで被験者の脳活動から好みの度合いについての情報を読み出します。具体的には、帯状回の活動が好きという状態に近づくほど被験者に提示される円が大きくなるという視覚提示を作っておきます。

 

これで準備が整いました。被験者に具体的なフィードバックを行います。まず、被験者に「好きでも嫌いでもない中立的な好みの顔」を提示します。そして、ただ先ほどの円を「大きくなるように脳の活動を変えてください」とだけ伝えます。被験者は実際の研究の狙いには無自覚ですが、円を大きくしようと試行錯誤するうち、脳活動を、その顔をより好きになる状態に近づけていくことができます。この中立顔を見て、円を大きくするというトレーニングを3日間続けると、被験者は中立顔を以前よりも少し好ましいと思うようになります。同様の手法を用いることで、特定の顔に対する印象を嫌いな方向に誘導することも可能です。この方法で劇的に好みを変えるまでには至っていませんが、少なくとも変えることはできるのです。

 

また応用として、視覚の能力を高めるようなニューロフィードバックも可能です。現代の脳科学が生み出した技術は、脳を理解するだけではなく、特定の目標に沿って変えることも可能にしつつあるのです。

逆応用科学としてのサイバネティック・ビーイング

プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」にもっとも期待しているのは、「逆応用科学」としてのアプローチです。逆応用科学とは、研究開発や社会の現場で生まれた知見に駆動される科学のことです。

 

サイバネティック・アバターによって、これまでの人間の脳には未知の体験である技能融合や経験共有などが実現されるとき、その経験に応じて脳がどのように変わっていくのかを調べてみたいのです。脳がどのように適応するのかを調べていくことで、脳の新たな側面を発見し、脳科学を前進させることが私の興味です。それは複雑な情報を扱うことができる機械学習にもとづいて脳を理解し、変えることができる現代の脳科学だからこそできることだと感じています。

 

プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」は、脳の苦手種目に溢れています。私は経験共有研究グループに所属していますので、笠原俊一さんが開発している、ふたりの人間と卓球をプレイできる「Parallel Ping-Pong」などを間近で見ています。Parallel Ping-Pongは、言ってみればマルチタスキングの極みのような試みです。

 

私たちの脳は、マルチタスキングが苦手だと考えられています。脳にとって複数のタスクを並列的に行うのは難しく、実際にはごまかしごまかし切り替えながら直列にこなしている、というのが一般的な考え方です。

 

また、ひとつの身体に複数の経験が入ってくるような状況で、どのようにして記憶が成立するのかも興味深いところです。通常の生活では同時刻に複数の異なる場所で異なる経験をすることはないからです。
現在の進行中の研究で、行動実験と脳計測を通じて、訓練によるマルチタスキング習熟の仕組みや、複数の記憶が脳内で統合される仕組みを明らかにしていきたいと考えています。

 

脳科学の常識に照らすと、プロジェクト「サイバネティック・ビーイング」は脳にとって世紀の苦手種目の連続です。しかし、忘れてはならないのは、脳の仕組みはまだよく判っていないということです。とくに、私の興味である「脳の可塑性」がそうです。

 

脳の可塑性は、「神経可塑性」とも表現されますが、脳内の神経ネットワークが成長したり、自らを再編成することによって、さまざまなことに適応することを指します。神経細胞同士が新たな結合を作るという局所的な変化から、皮質の再構築を行うような大規模な調整まで、経験に応じて起こる可塑性は多岐にわたります。

 

これまで私たちはひとつの脳とひとつの身体から脳の可塑性を研究してきました。しかしサイバネティック・ビーイングは、 テクノロジーによって複数の身体を仮想的に統合したり、複数の脳を融合するという試みです。その試みを通して、新しい脳の可塑性が見えてくるかもしれません。するとその発見は、脳科学の新しい地平を私たちの前に提示するでしょう。

 

そうして生まれる新しい脳科学は、非常に根源的で質的な人間拡張を実現すると期待しています。

 

 

(聞き手・文 森旭彦、聞き手 小原和也)

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