第9回となる今回は、世界的なパフォーマンスアーティスト・ステラークの来日にあわせて始動した「Stelarc’s Split Body / Multilateral Research Lab」との合同企画として、SHIBUYA QWSで開催されました。
セッションのテーマは、「スプリットボディは分身なのか?」。ステラーク(パフォーマンスアーティスト)を迎え、モデレーターの根上陽子氏(Living Together Co.)、登壇者に南澤孝太PM(慶應義塾大学/Project Cybernetic being)、清水知子氏(東京芸術大学)、岩崎秀雄氏(早稲田大学)が参加し、アート・工学・哲学・生命科学の境界を横断しながら、「分裂する身体」「分身」「拡張された主体」について議論が展開されました。
「スプリットボディ」とは何かー
ステラークが語る、分裂する身体と拡張する主体
セッション冒頭では、根上氏からステラークの50年にわたる活動と、「Split Body(スプリットボディ)」というコンセプトが紹介されました。サイバーパンク作家ウィリアム・ギブスンや、メディア研究者・高橋徹によるステラーク論にも触れながら、「分裂した身体」「ステラーク的サイボーグ」といったキーワードが提示されました。
続いてステラーク自身が、「スプリットボディ」をめぐる代表的なパフォーマンスを振り返りました。
「今日は『スプリットボディ』というアイデアを示すプロジェクトについて話します。それは心と身体のデカルト的分離ではなく、生理的な意味での分裂です。身体性や主体性、アイデンティティ、現実と仮想の関係を問い直すものです」(ステラーク)
1980年代の「Fractal Flesh」では、レーザーの「眼」を持つ身体や、筋電・筋刺激を用いて、片側の身体を不随意に動かすパフォーマンスを展開。1990年代の「Ping Body」では、世界各地から送信されるPing信号の遅延が、そのまま筋肉の動きにマッピングされ、インターネット上の活動が身体を駆動する「寄生体(parasite)」としての身体が立ち上がりました。
「Rewired / Remix」では、視覚はロンドンにいる誰かの眼、聴覚はニューヨークの誰かの耳、右腕は世界中の不特定多数による操作という構成で、ステラークの身体は同時に3つの場所(2つはバーチャル・1つは物理)に分散した存在としてパフォーマンスを行いました。
「身体は同時に3か所にあり、どこにもいないようでいて、どこにでもある。主体は分裂し、身体はネットワークに寄生し、逆にネットワークも身体を宿主とする。その両義性を扱ってきました」(ステラーク)
これらの実践は、身体の境界を物理的にも情報的にも分割し、同時に拡張する「スプリットボディ」の具体例として共有されました。
テレイグジスタンスと「身体のDX」
分身ロボットから、自分の身体の再編集へ(南澤孝太)
続いて南澤PMから、自身の研究とステラークとの接点を起点に話題提供を行いました。テレイグジスタンスの提唱者である舘暲東京大学名誉教授の最後の弟子としての経験にも触れつつ、人の存在を遠隔に「送る」技術から、自分の身体そのものを「編集する」時代への変化を語りました。
「私たちは、身体性メディア『Embodied Media』というキーワードで、人間の身体や能力をどう拡張するかを研究しています。遠隔の世界の感覚や、誰かの過去の感覚を届けること。そして、腕や尻尾を増やすなど、ボディスキーマそのものを編集することを実践しています。」(南澤)
過去に南澤PMも開発に関わったテレイグジスタンスロボット「TELESAR」では、ロボットが主体となって見る・聞く・触るをオペレーターがそのまま体験できる「分身」を実現しました。その一方で、例えば自分の脚の動きをロボットアームにマッピングし、触覚フィードバックを返すことで「足が手になっていく」ような身体感覚の変容も生み出すこともわかってきたと言います。
「最初は『ロボットの手を操作している』感覚なんですが、だんだん『足に力を入れると、もう一つの手が動く』という感覚になっていく。そんなふうに、人間のボディスキーマは意外と簡単に編集できるんです。」(南澤)
また、手足の延長としてのロボットアームや尻尾の開発、2台のロボットを同時に操る「Parallel Ping-Pong」、ALSの当事者である武藤将胤氏と視覚や脳波などを活用して身体の限界を突破する表現活動である「Brain Body Jockey (B2J)」プロジェクトなどが紹介され、「分身」「変身」「融合」といったテーマが、社会へ技術・サービスとして実装されつつある現状が示されました。
「ステラークが開拓してきた身体の概念が、50年をかけて技術として実装され、今ほんとうにそれを必要としている人たちのもとに届き始めている。その接点を、Project Cybernetic beingでも探っていきたいと考えています」(南澤)
サイボーグからポストヒューマンへ
メディア論からみるスプリットボディ(清水知子)
清水氏は「スプリットボディ」をポストヒューマンの観点から捉える三つの観点を提示しました。
1点目「サイボーグと身体」では、 ダナ・ハラウェイによる1985年の「サイボーグ宣言」以降、人間・動物・機械・植物といった区別に先立つレベルで「コミュニケーション・システム」として、家族や血縁といった関係性に回収されることなく、「共通の存在論」として捉え直す議論があることを提示しました。
2点目は、「サイボーグになる」という観点。具体的には、障害とテクノロジーについて 、たとえば機械と接続された生活は必ずしもスムーズではなく「ぎこちなさ」や「不安定さ」を抱えたままでもあります。こうした「障害者サイボーグ」が身体のひとつの未来像としてなぜ語られてこなかったのかという観点を示し、身体の可塑性を考える観点を提示しました。
最後に、「彫刻とメディア、生命のデザイン」という観点から、医学やバイオテクノロジーと芸術が交差する場で、複数の人間と人間以外の存在が否応なく絡まりあうプロセスから生まれる形象として身体を改めて捉え直すという論点を提示しました。
「自分の身体の内部を、医療機器を介して“外部”に提示するストマック・スカルプチャーは、内と外、見る者と見られる者を反転させます。そうなったときに、身体とテクノロジーという観点から、誰が目撃者で、何がメディアなのか。アートと医学の交差点で、身体は新たな意味を帯び始めるのではないでしょうか。」(清水)
ステラークの「Third Hand(第三の手)」や、「Stomach Sculpture(胃の彫刻)」といった作品は、こうした議論と強く響き合うといいます。また同時に、サイボーグをめぐる神話として、この議論は20世紀後半に突然現れたわけではなく、18世紀の人間機械論、20世紀初頭の義手・義足、あるいは身体計測の事例など、戦争や整形をはじめとする生体と機械をめぐる長い歴史の積み重ねの上にあることも指摘しました。
「ステラークが50年にわたって探求してきたのは、近代的な芸術、と呼ばれていたものと違って、非意識的・非言語的で非集合的、非人間的な存在としてあると思います。今ここにはいない存在や、人間以外の存在と、否応なくエンタングルメントしてしまう世界。その継承が、スプリットボディというかたちで立ち上がっているのではないでしょうか」(清水)
生命科学から見た分身とパラサイト
「私たちの身体は誰のものか」(岩崎秀雄)
岩崎氏は、生物学者でありバイオアートの実践者として、生命科学の視点からスプリットボディにまつわる観点を提示しました。
まず自身の経験として、森美術館「医学と芸術展」をきっかけに、ステラークの作品と出会い、その後、岩崎氏の主宰するmetaPhorestへ招聘し「Zombie, Cyborg, Chimera」という講演などから、親交が深まったと振り返ります。とりわけ、インターネットを介して他者に身体を占有されうる「PARASITE」のプロジェクトは、「身体は自己の所有物であり、人権として侵されてはならない」という近代的人権感覚を揺さぶるものだったと言います。
「僕たちの身体観は、“身体は本人の所有物であり、何者からも侵されてはならない”という自己所有権・身体権に強く支えられています。ステラークの実践は、それを決して否定せずに尊重しつつも、同時に相対化する力を持っていると感じました」(岩崎)
生命科学では、もともと「個体の主体性」はそれほど強調されないことも多く、細胞と個体、個体と個体群、DNAと身体の関係性など、主体性というものがそこまで意識されることが少ない現状を指摘しました。人間の細胞よりはるかに多い土壌や水中、そして私たちの体の表面や腸内に存在している微生物コミュニティとしてのマイクロバイオームの考え方のように、「人間は9割が微生物、1割がホモ・サピエンス」といった見方など、さまざまなスケールで人間というものを捉えなおす議論があることを紹介しました。
「そもそも、生命科学の観点からいうと、微生物は「子どもを産む」のではなく「分身して増える」ため、寿命の概念も人間とはまったく異なります。分身して増える微生物には、僕らの考える“寿命”が当てはまりません。殺すことはできるけれど、寿命による死とは違う。スプリットボディや分身を考える時、死や寿命の概念そのものを問い直す必要があると感じます」(岩崎)
岩崎氏は、スプリットボディそのものよりも、「分裂した主体」を実際に誰が経験するのかという点が重要だと指摘します。エージェンシーが個体にあるのか、あるいは細胞や微生物などのサブドメインにあるのかで、身体や自己の見え方は大きく変わる。また、機械と生命をどう位置づけるかも不可欠な論点であると言います。近年は、機械を人間に寄生するウイルスのような存在として捉え直すことで、人間中心的な生命観を相対化できるのではないかと考えており、スプリットボディの議論にも新たな視点をもたらすと述べました。このような視点から、機械と生物の境界を揺さぶり、主体や身体の概念を再検討していく必要性を強調した。
「ステラークの身体実践は、ボディに関する“クラインの壺”のようです。近代的主体を相対化しつつ、しかし他者にそれを強制しないという意味では、きわめてクラシカルな主体概念も同時に体現している。その自己矛盾的でパラドキシカルなあり方に、強く惹かれています。」(岩崎)
人間とAI/ヒューマノイドの「二つの軌跡」
AI・自由意志・ケア、「人間はゾンビのような存在かもしれない」ー後半のクロストークでは、ステラークの言う「パラサイト」やAIに対する見方、そして自由意志とケアの問題へと議論が広がりました。
南澤PMから「AIの時代にスプリットボディをどう捉えるか」という問いに対し、ステラークは、人工知能の歴史(初期のAI、人工生命、ニューラルネット、機械学習、そして大規模言語モデルなど)をたどりながら、こう答えます。
「経験や身体、知識がインターネット上に拡散し、人間のコピーが並行して存在しうるようになりました。そのとき、身体の意味とは何か。精神さえも編集可能になる時代に、どこまでを“人間”と呼ぶのでしょうか」(ステラーク)
強化される人間の身体(インプラントや補助装置、自動化された行動)と、高度化するヒューマノイド(AIを備え、精緻な運動能力を持つ)。この「二つの軌跡」が融合しつつあるなかで、これからの社会において「生物」と「技術」を分ける意味自体が薄れていくのではないかとステラークは指摘しました。
人間はゾンビか、自由意志はどこにあるのか
自由意志との関係については、ステラークは次のように語ります。「人間というのは、ある意味ではゾンビのような存在でもあります。行動の多くは環境のシグナルや、機械・道具によって調整されている。そうなると『自由意志』とは何かを区別するのはとても難しい」(ステラーク)
マイクを取って話すという「いまこの瞬間の行為」はたしかに自由に見える一方で、そこに至るまでには、招待されたこと、会場、通訳、これまでの経歴など、多数の因果が重なっている。だからこそ、重要なのは「私の脳の中」でも「あなたの脳の中」でもなく、そのあいだで起きていることだと、ステラークは強調します。
「大切なのは、特定の言語・社会制度・文化・歴史的な文脈のなかで、私たちがどうコミュニケーションしているか、その“between”にあります」(ステラーク)
清水氏からは、「テクノロジーとケアの関係をどう考えるか」という問いも投げかけられました。アニメ攻殻機動隊の作品中でも「壊れた身体を直す」という描写が描かれることを引き合いに、テクノロジーとケアの関係性について、ステラークに問いかけました。
ステラークは「Stomach Sculpture」を例に、身体が技術の宿主になるというアイデアを語ります。「マイクロ・ナノ技術の発展によって、私たちは体内にナノセンサーやナノマシンを取り込み、最初は病理の監視に使い、そのうち身体そのものを原子レベルで再設計するようになるかもしれません。細菌やウイルスの生態にナノマシンが混ざり込んでいく。変化はゆっくりで、表面化したときにはもう別の身体になっているかもしれない。」(ステラーク)
スプリットからディストリビュートへ分裂する身体から、分散する存在へ
後半のトークセッションでも、身体とテクノロジー・ケアなどの関係は「分裂」ではなく、「混ざり合い」「融合」へと向かうものとして議論が展開されました。
セッションの最後には、登壇者それぞれが、スプリットボディをめぐる議論を振り返りました。「スプリットボディから、混ざり合い、マージしていく世界。物理学・哲学などでかつて提案されていたような見えない「エーテル」のようなものから、体内のバクテリア、ナノマシン、インターネットの向こう側の誰かまで、どこに境界線を引くのか。それ自体を問い直すことが、ステラークの実践なのだと思います」(南澤)
「哲学・バイオ・エンジニアリング・アート、違う言葉で語っていても、共有している世界観があると感じました。スプリットボディという概念は、今や社会インフラを支える新しい認識論の一部になりつつあるのかもしれません」(根上)
スプリットボディは、単に身体を「分ける」ことではなく、主体性や生命観、自己所有権や人権感覚、生と死、オンラインとオフライン、人間と機械、人間と微生物、といった、これまで自明とされてきた境界を問い直し、「分散しながらつながっている存在」としての私たちを捉え直すためのキーワードとして浮かび上がりました。
アート、生命科学、哲学、工学。それぞれの分野からの応答が交差した今回のセッションは、身体や分身、そして人間そのものをめぐる議論を、次のステージへと押し広げる時間となりました。
当日のイベント内容を詳しく知りたい方は、下記のYouTubeのアーカイブから、配信の様子をご覧いただけます。